翌日もその子はキャラバンの下に居た。
昨晩はコインを団長へ渡す時間が遅くなって怒られてしまったが、パンと水はもらうことができた。
しかし今夜にはあの歌姫の人が団長に言いつけて、パンも水ももらえなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、お腹が空いてもポケットの中の菓子屑には手を伸ばすことができなかった。
ふいに向こうの方から彼女の姿が見え、思わず身を固くするが、どうやらリリアもその子がキャラバンの下に居るのが見えているらしく、迷うことのない足取りでこちらへと近付いてくると、ひょいとキャラバンの下を覗き込んだ。
「1人じゃハイドアンドシークはできないんじゃない?」
無邪気で明るい声と笑みに、その子は目を逸らした。
リリアは少し考えると「私もお邪魔していいかしら?」と、また声をかけるが、その子は驚いた表情で首を振る。
「あら、どうして?」
と、リリアが訊ねれば小さく掠れた声で「服が、汚れる…」と返ってくる。
しかしリリアは反応があったことが嬉しく、もう少しだけ覗き込むと
「じゃああなたは、どうしてそこにいるの?」
と、また訊ねた。
その子は少し居心地が悪そうに身体をもぞもぞ揺らすと
「僕は、汚れてる、から…」
と、とても小さな声で返し、リリアの興味津々といった視線に耐え切れなくなったのか、やがてキャラバンの下から這い出て来た。
「…昨日の、夜のこと…怒らないの…?」
勇気を出して訊ねると、リリアはきょとんとした表情で首を傾げた。
恐らくは昨晩勝手にキャラバンに入ったことを言っているのだろう。
しかし怒ってはいないし、彼女は「うーん」と小さく唸ってから、
「何かしたと思うのなら、それを謝ってちょうだい」
と微笑む。
すると、その子は両手を胸の前で握り合わせたまま、躊躇するように視線を逸らしていたが、やがて先程よりももっと小さく掠れた声で「ごめんなさい」と囁いた。
その子はキャラバンの窓からぬいぐるみが見えたこと、窓から覗いてみたら不思議なものがたくさん見えて、部屋の中を見てみたくなったことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
それを黙って聞いていたリリアは、その子が話し終えると、にっこり笑って「いらっしゃい」と、自分のキャラバンへ案内した。
その子は戸惑った表情を浮かべながらも大人しくついて行き、キャラバンの中を見回す。
心なしかその目は輝いているように感じ、リリアは入り口で立ち尽くしているその子に再び手招きして椅子を勧めた。
するとその子は驚いて大きく首を振る。
その子は人に椅子を勧められるどころか、椅子に座ったこともなかった。
「どうして?」
不思議そうに小首を傾げるリリアに、その子は困った様子で「汚れる、から…」と、短く答える。
気にしなくていいと言っても首を振って入り口から動かない。
彼女は少し考えて、戸棚から小さく綺麗な箱を取り出すと再び、
「いらっしゃい」
と、今度は外へ連れ出した。
リリアはその子にキャラバンのステップに座って待つように言ってから、綺麗なドレスの袖を捲り上げ、サーカスのテントの方へさっさと歩いて行ってしまった。
その子は言われた通りにステップに座り込むと隠れるように膝を抱えて身を縮める。
しばらくしてリリアは大きな金だらいを引きずるようにして持って帰って来ると、小道具係りの大きなキャラバンのドアを叩く。
すると、小道具係りのジョセフがひょっこりと顔を覗かせ、2人は何かを話合い始めた。
時々ジョセフがこちらを一瞥する。
やがて彼は小さく肩をすくめるとリリアの後ろについて、2人でどこかへ行ってしまった。
「…お腹、すいた…」
その子は抱えていた膝にコツコツと額をぶつけると、いよいよポケットに手を突っ込んでお菓子の欠片を食べ始めた。
何が始まるのかはわからないけれど、あの人は自分のことがあまり嫌いではないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、リリアが小走りでどこかへ走って行くのが見える。
リリアとジョセフが忙しそうに走り回るのを観察して、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
リリアが楽しそうに駆け寄って来て、その子の顔を覗き込んだ。
「お待たせ、仔ウサギちゃん!さあ、こっちへいらっしゃい!」
リリアがその子の背中に手を添わせると、その子は驚いたのかビクリと肩を震わせた。
その子にとっては誰かが自分に触ることなんて、叩いたり、小突いたりするする時くらいなもので、彼女のように優しく触れてもらうのは初めてのことだった。
彼女の誘導するままついて行くと、先ほどの金だらいの前に立たされる。
中には水が入っていて水面が風にすれると、ふわりと何かが宙に舞う。
「1人で脱げる?」
これは何だろう?と金だらいを見つめるその子の顔を覗きこみながら、リリアが心配そうに訊ねる。
それを聞いてその子は小首を傾げた。
「…脱ぐ?…」
何故?と聞く前にリリアに思い切り服の裾を掴まれる。
「じゃあ私がやるわね!はい、両手を上に上げてちょうだい!」
「うわわわわわ」
驚いて悲鳴にも近い声を上げるが、リリアは気にせずその子から服を剥ぎ取った。
パラパラとポップコーンのカスや、土や乾いた泥、それからキャラバンの下に居た時に服に潜り込んだのであろう小さな蟻たちが落ちる。
この服はもうダメね。
リリアは口にすることはなかったが1人頷くと、下着に手をかけようとした。
「あら?」
しかしその子はそれ以上何も身につけてはいなかったようで、既に裸の状態だ。
「あれ?あなた下着は…あら?男の子だったのね!私てっきり女の子かと思っていたわ」
その子は何のことかわからなかったが、リリアは困った様子で「どうしましょ」と金だらいの側に置いたカゴに目をやる。
しかし次の瞬間「ま、いいか」と再びその子に向き直った。
「さ、この中に入ってちょうだい!」
金だらいを指差し、もう片方の手でその子の背を優しく誘導すると、その子は少し戸惑いながらも金だらいの中に足をつけた。
「わっ」
水はとても温かく、リリアに促されるまま座ると、腰辺りまで温かい水に浸かった。
冷えて白くなっていた指先がじわじわと赤みを帯びていく。
「さてと!じゃあ身体を洗うからジッとしていてね」
リリアは一言そう告げると、その子の頭の先から温かい水を流す。
驚いて身体を震わせるが、リリアは気にせずに綺麗な箱から何やら白い物を取りだして、それを擦り始める。
「それは、なに?」
段々泡立ち始める良い匂いのそれを見つめていると、リリアはその泡をその子の頭にそっと乗せながら「石鹸よ!良い匂いでしょ」と答えた。
それからその子の頭をわしわしと洗い始める。
その間にどこからかジョセフがまた金だらいを持って来て、同じように温かい水で満たしていく。
その子のことには大して興味もなさそうだったが、リリアが何か話すと、その通りに動いているようだった。
ふと自分が入っている金だらいの水が酷く濁っていることに気が付き、その子は寂しそうに水面を撫でた。
「さ、今度はこっちのたらいに入ってちょうだい!ジョセフ、こっちお願いね」
リリアに誘導されるままにもう一つの金だらいに入ると、先ほどよりも少し温度が高い。
ジョセフはその汚れた水をその辺にまき散らすと、どこかへ行ってしまった。
リリアは気にした様子もなく、再びその子の髪をわしわしと洗い始める。
何だか頭の上が泡だらけになってきた。
それから柔らかな何かで身体を擦られる。
「海綿だから痛くないでしょ?退屈じゃない?」
優しく首元を洗いながら、リリアは怖がらせないように声をかけた。
その子は少し緊張した面持ちだったが、柔らかな海綿で身体を洗われるのは心地が良いらしく、少し目を細めて首を横に振った。
「痛いところはなぁい?」
優しい声音の問いに、また首を振る。
続いて腕を洗い始めると、ジョセフがどこからか戻って来てまた温かい水を金だらいに注ぎ始める。
「ちょっと熱すぎない?」
リリアが彼に声をかけると、ジョセフは肩を竦めて
「そっちが終わる頃には適温だろ」
と答えて、その場にしゃがんだ。
リリアは根気よくその子の身体を洗い続け、足の先まで洗い終わる頃には、夕方になっていた。
ジョセフはその間も何度となく温かい水を交換し続け、まき散らした水のおかげで辺りは水浸しで、通行に支障はないものの、まるで沼地のようだった。
「ふう…」
さすがに疲れたのか、リリアは溜め息をついて汗を拭うと、すっかり綺麗になったその子の身体をタオルで包んだ。
その子もさすがに疲れたのか小さく息を吐き出す。
「ふふ、仔ウサギちゃん。すっかり見違えたわ!綺麗な金髪ね」
リリアは嬉しそうに身体についた水滴を拭って、それから急に申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめんね、あなたのこと女の子だと思っていたから…」
そう言ってカゴから取り出したのは、レースと刺繍が施された真っ白なシュミーズだった。
だけど何も着せないよりかは、とそれをその子に被せる。
その子は両手を胸の前でぎゅっと握り合わせ、目もしっかり閉じた。
「そんなに緊張しないで、下着で申し訳ないけどドレスはあなたのサイズに合わせられないから…。大丈夫よ、腕を通してみて」
そう言うと、その子はリリアの表情を窺いながら、そろりそろりと腕を通し、リリアはカゴから更に裁縫道具を取り出して、その子の丈に合うようにたくし上げた。
「お腹が空いたから何か食べましょう」
自分の姿を見下ろしているその子の背中に手を添えて、キャラバンへ誘導する。
その子はおそるおそるキャラバンのステップを上がると、恐々室内に入った。
「さあ、綺麗になったから座ってくれるわね?」
先程の椅子を勧められると、その子は戸惑いながら少し立ち尽くしていたが、やがてリリアに再度促されるとようやく椅子に腰かけた。
「やった!仔ウサギちゃんがやっと座ってくれた!あ、ごめんなさい。嬉しくて、つい」
リリアは本当に嬉しそうに手を叩き合わせると、「ちょっと待っててね」と言って小さなキッチンからティーポットを取り出しお茶の支度を始めた。
ディナーの時間も近いから、と彼女は塩漬けした肉と今朝早く市場で仕入れたカブを切り分けると、豆やハーブと共に小さな鍋に入れて火にかけた。
「あ、そうそう!今日は朝に町へ行ったからパンがあるのよ」
戸棚からパンを取り出して小さなテーブルに置くと、その子は慌てて椅子から飛び降りた。
「わっ、どうしたの?」
「あ、あの…!僕、し、しごとが」
あまりの出来事にすっかり忘れていたが、いつもならとっくにコインを拾いにサーカスの広場へ行っている時間だ。
「あら、あなたそんなに小さいのに仕事があるの?」
サーカスの舞台に立ったり裏方の仕事をしたりできるほど筋力があるようには見えないし、芸の練習をしているところも見ていない。
「あの…大人が落とした、コインを拾って、団長に渡すんだ…」
早く行かなくちゃという思いと、リリアの質問に答えなくちゃという思いの間でじりじりと後退りながら答えると、リリアは少しだけ眉を顰める。
その表情に思わずその子は立ち止まった。
「そんな泥棒みたいな真似しなくていいわ。団長には私から言っておくから、あなたはこっちへ座っていらっしゃい」
そう言うと彼女は火を止めて、キャラバンから出て行った。
その子はどうしようかと迷ったが、こんなに綺麗にしてくれたのに彼女に対して徒になってしまったら彼女は悲しむかもしれない。
そう思うと出て行こうにも出ていかれない。
だけど団長の機嫌を損ねたら、最悪サーカスから追い出されてしまうだろう。
彼は自分を育ててくれてはいるが、親ではないのだ。
「...ごめんなさい…」
その子は小さく呟くと、キャラバンのドアノブに手をかけようとした。
しかしその瞬間キャラバンのドアが開き、驚いたリリアが小さく悲鳴を上げた。
時間は思ったよりも過ぎていたらしく、悩んでいる間に彼女が戻って来てしまったようだ。
「ご、ごめんね。てっきり椅子に座ってるかと思ってたの。そんなところに立っていないで座っていたら良かったのに」
ふふ、と笑うとまた彼女は背中に手を添えて椅子へ誘導する。
「でも…」
不安そうに彼女を見上げると、彼女は「大丈夫よ」と言ってその子を椅子に座らせた。
「ディナーの支度をしながらで悪いんだけど、」と言いながらまたキッチンへ向くと、再び火を入れる。
「あなた孤児なんですってね。私があなたのお世話をすることにしてもらったから、コイン集めはもうしなくていいわ。今夜は悪いんだけど、団長のキャラバンに泊めてもらって明日このキャラバンにあなたの寝るところを用意しましょう。私もあと1週間くらいは環境に慣れなくちゃいけないのと、お稽古があってサーカスに出られないから、その間に何とか模様替えするわ」
その子はその話を信じられないといった面持ちで言葉も挟めずに聞いていた。
彼女はどうして自分を引き取ることにしたんだろう、という疑問が頭の中をぐるぐる回っているが、目の前にことりと置かれたスープに思わず視線を移す。
「さ、お待たせ!ご飯にしましょ」
リリアは更に紅茶を淹れると自分も椅子に座った。
「ううう」
良い香りの湯気が立ち昇るスープに、その子は思わずごくりと喉を鳴らす。
温かな食事など初めてだ。
毎日毎日小さな硬いパンと水だけで、ごく稀に団長が残した冷めたスープを与えられたら、それがご馳走だった。
「どうしたの?ハーブは嫌い?」
そう訊かれて、その子は慌ててスプーンを握ると一口をそっと口へ運び、目を輝かせた。
塩漬けにした肉の汁やハーブの味がふわりと口内に広がる。 豆もカブも柔らかく、噛めば温かなスープが滲み出てきた。
スープで煮込まれたことによって柔らかくなった肉は噛んでいるうちに脂が溶け出し、飲み込むのが惜しい程だ。
「パンも食べてね。この紅茶もあなたの分よ」
リリアはずっとスープの肉をもぐもぐと噛み続けているその子の方へパンの皿を押し、カップも近付けてくれる。
その子はおそるおそるパンを手に取ると、その柔らかさに目を見開いた。
思わず指の先で柔らかさを確かめると、口へ運んだ。
ふわりと小麦の匂いが漂う白いパンは、いつも食べている物に比べ簡単に噛み千切れる。
「美味しい?」
リリアに訊ねられて、その子は顔を上げた。
「…おいしい…?」
何を訊かれたのかわからない様子で首を傾げるその子に、リリアはにこりと笑った。
「いいのよ。そのうち色々教えてあげるわね。ところで今更なんだけど…あなた、名前は何て言うの?」
ずっと仔ウサギみたいだから仔ウサギちゃんと呼んでいたが、これからもずっとそう呼ぶわけにもいかない。
するとその子はまた何を訊かれたのかわからない様子だ。
「私にはリリアって名前があるの。リリアって呼んでちょうだいね。私はあなたのことを何て呼んだら良いかしら?」
つまりサーカスだったり、カサンドラだったり、団長だったりとその物を表すもののことだろう。
その子は少し考えると、一番呼ばれている言葉を口にした。
「えっと…"そこのおまえ"?」
リリアは驚いて思わずぽかんと口を開き、思わず「何ですって」と言葉を漏らした。
汚れて痩せこけて名前も無い。間違いなく彼だけ除け者にされているし、誰もこの子のことを気にかけもしない。
同じサーカスの仲間なのにこんなことがあって良いのだろうか。
「問題外だわ、それじゃダメよ!それは名前ではないの。なんてこと…」
悲しそうに眉尻を下げるリリアに、怒られるだろうか?と彼女の様子を窺いながら、何か言おうと口を開いたり閉じたりしていると、彼女は「いいわ」と今度は目を輝かせる。
「私が名前を考えてみるわね!」
それからああでもない、こうでもないと食事も忘れて名前を考え始めた彼女に、なんて表情がよく変わるんだろうと半ば驚きながら、でも怒られずに済みそうだと安心したのかその子は再びスープを口へ運び始めた。