Lino the ripper
「…覚えてる?」
薄暗い路地裏でボロを纏った人が紳士に呼びかける。
紳士はその子の姿を見て僅かに怪訝な表情を浮かべたが、「何をだね、お嬢さん」と優し気な声で答える。
しかし、その瞬間赤いしぶきが目の前にあがった。
その向こうに鋭く突き刺さるような視線を感じ、視界が暗くなる。
「何を、だって?あの事だよ。忘れたの?」
深く憎しみの籠った声でそう呟く声が最期に聞こえた。
「許せない。忘れるなんて。」
そう呟いたその子の手には鋭い鋏の刃のようなものが装着されていて、それが彼の喉を切り裂いたようだった。
その子はいつも路地裏に居て、誰かが通るたびにこうして”話かけ"、そして殺す。
優しかった彼女を無残な方法で殺した”あいつら”。
小さな世界で彼女だけが優しく、そして色々なことを教えてくれた。
炎に焼かれながらも助けてくれた。
そんな彼女を殺した”あいつら”を殺すことだけがその子の生きている意味だった。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!世にも奇妙な魔術師に、美しい双子の踊り子、チビだけれど勇敢な猛獣使いに、命綱無しの綱渡り嬢!さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!楽しいサーカスだよ!」
チラシを配るピエロたち、華やかな衣装を身に纏って微笑みながら挨拶をするサーカスの団員たち。
楽しげに笑いながらサーカスの開演を心待ちにする親子たちを見つめながら、その子はぼんやりとキャラバンの下に寝そべっていた。
まだ幼いというのに、汚れた肌は荒れて皮膚が剥がれ、埃まみれの金髪は樟んで汚らしく、下着とも服ともつかないボロ布から出ている手足は枯れ枝のようにひょろひょろで、まるで別の世界にいるかのようなその子には名前がない。
その子の父親は、数年前踊り子の女を自分のキャラバンに連れ込んで無理矢理犯してサーカスから追い出され、踊り子の女は泣く泣くその子を産み、しばらくの間は育児に勤しんでいたが、やがて精神的な病気を患ってサーカスを去って行ってしまった。
名前ももらえずに残されたその子を団長が育てることになったのだが、彼には子育ての経験どころか、その子に対しての愛情すらなく、ただ仕方が無いから育てている。そんな程度だった。
「だからもう勝手にすればいいじゃないのさ!!」
突然頭上にあるキャラバンのドアが荒々しく開かれたかと思えば、サーカスの歌姫役をしているカサンドラが何かわめき散らしている声が聞こえた。
続いて団長のスティーブが何か話している声も聞こえたが、スティーブはキャラバンの中にいるらしく、話の内容は聞こえない。
「ええ、ええ、どこぞの阿婆擦れだか知りませんけどね!私の代わりが務まるもんですか!!精々大恥かくが良いわよ!!」
カサンドラは重たそうな鞄をステップから引き摺り下ろして、キッと彼を睨み上げ、
「良いこと、スティーブ!私が居なけりゃ、歌のステージは台無しよ!ざまあみなさい!」
そう言い放つと、カサンドラは重たそうな鞄を抱え上げ、町の方へヨタヨタと歩いて行ってしまった。
その子はポケットから取り出した小さなポップコーンの欠片を口へ運びながら、ぼんやりとその後ろ姿を見ていたが、やがて興味がなくなったのか、ごろりと寝返りをうつ。
その子は仕事が始まるまでの時間をそこで過ごすことが多く、日が沈みかけ、辺りが薄暗くなってきた頃ようやくキャラバンの下から這い出て来る。
そして埃や土を適当に払うと、テントの入口付近へと移動した。
サーカスではお土産としてのオモチャや、ポップコーンやキャンディなどのお菓子を販売していて、うっかりした客が落としたコインを、”片付ける”のがその子の仕事だった。
その報酬にパンを一つと、古いブリキのカップに入った水一杯を団長から受け取り夕食にする。
その子は賑わってきた広場をあちらへこちらへ歩きながら落ちてるコインを探し回った。
チャリンと音がする方へ顔を向けると、ポップコーンを売っている屋台のカウンターの下に落ちたコインが、ランタンの灯りに照らされてオレンジ色に輝いているのが見える。
その子はそのコインをジッと見つめ、それから客の様子を伺った。
どうやらポップコーンに気を取られ、コインが落ちたことなど気付きもしていないようだった。
少しして客が行ってしまうと、その子は屋台に駆け寄ってコインを拾い上げ、そのついでにカウンターの下にバラバラ落ちているポップコーンも拾い集めてポケットに突っ込む。
昼間は団長がサーカスの人気者たちを連れ、チラシ配りや宣伝へ行ってしまうためこうしてポップコーンやキャンディの欠片を集めておかないと食べるものが何もない。
土のついた物でも多少飢えは凌げるし、苦い草を食べるより良かった。
やがてサーカスが始まると広場には誰も居なくなり、やることがなくなったその子はまたキャラバンの下に潜り込む。
ただこの仕事のために生かされているようなものだったが、その子はそれで文句はなかったし、考えることすらしなかった、文句ひとつ口にせずにぼんやりとキャラバンの底を眺めていた。
次の町へ着くと、団員たちは早々にテントを張る係りと宣伝する係りに別れて仕事を始める傍ら、その子は団長のキャラバンの隅でようやく目が覚めた。
辺りを見回しても団長は既に居ない。
目が覚めたからといって何もすることが無いが、いつまでも眠っていると小言を言われる。
その子は寝床にしている薄い麻袋を適当に畳んでもっと隅に寄せると、テーブルの上に置かれた小さいパンと水で朝食を済ませた。
パサついた硬いパンを食べ終えると、その子は外の様子を見ようとキャラバンから外に出た。
町外れの空いているスペースに大きなテントを張る団員たちは忙しそうだし、サーカスの人気者たちは団長と共にもう居ない。
その子はそれらを何と無く眺めた後、いつものようにキャラバンの下へ潜り込んだ。
何をするでもなくぼんやりと地面を眺めて過ごす。
草に朝露が輝いているのを観察し、それから蟻が一生懸命小さな昆虫を運んでいるのを目で追ったり、側を通る団員たちの忙しそうな足を見つめる。
「……。」
しばらくそんな時間を過ごし、その子はお腹が空いたのかポケットに手を突っ込み、夕べ拾ったお菓子の欠片を食べ始めた。
ふと足音に気がつき、キャラバンの下から辺りを覗くと、向こうの方から団長と、珍しいドレスを着た女性が歩いて来るのが見える。
夕焼けの太陽のような金色の髪、瑞々しい若葉のような緑色の目はキラキラと輝いていて、形の良い唇はふっくらと柔らかそうで、綺麗に整った爪の先まで優雅な仕草は他の女の人たちとは纏っている空気が何だか違って見える。
今までに見たこともないような美しい人に、その子は彼女から目が離せなかった。
団長は自分がいるキャラバンを指差して何かを告げ、女性は軽く会釈してからこちらへやって来た。
女性はレースやフリル、それにリボンが沢山施された黒いドレスを身に纏い、楽し気な足取りでキャラバンへ向かう。
「ここが私のキャラバンなのね。とても楽しみだわ」
そう言うと、キャラバンのステップへ荷物を置く。
その時、緩やかな風が彼女の髪を揺らし、彼女はこのキャラバンの下に何かがいるような気がして、パッと地面に手を着くと下を覗き込んだ。
案の定、そこには何かが居た。
しかし思っていたものとは違うものだったらしく、彼女は目を見開いてその子を見つめる。
覗き込まれた瞬間、その子は驚き、硬直していたが、彼女が瞬きをすると慌てて後退りを始めた。
「あら、私てっきり」
ゴーストかと思った。と、いう言葉は失礼かもしれないと思い直し、彼女はにこやかに微笑んで
「私リリアって言うのよ。ここで歌姫をやらせてもらえることになったの」
と挨拶をしたが、その子は警戒するような目でジッとリリアを見つめている。
そのまん丸な眼が仔兎みたいだと思い、彼女は結った髪が地面に付くほど身を屈めた。
しかしそれが逆に怖かったのか、その子はズリズリと後退りを始め、リリアが慌てて「待って!」と声を掛けるのも虚しく、その子は素早くキャラバンの下から這い出ると走り去ってしまった。
リリアは残念そうな表情で小さく溜息をつくと、砂ぼこりのついたドレスを叩くとステップを上がりドアを開ける。
こじんまりとはしていたが、思っていたよりも広さはある。
リリアは棚の上に軽く人差し指を滑らせると、綺麗に掃除してある室内に満足したようだった。
「さてと、今日からここが私の家なのね!思ったよりも綺麗で良かったわ」
リリアは気を取り直してそう言うと腰に手を当て、再度キャラバン内を見回す。
「あそこがベッドだから、先にベッド周辺から片付けようかしら」
ベッドはキャラバンに付属されているらしく、床と壁にくっ付いているようだった。
リリアは旅行用の大きな鞄の一つを開き、中から柔らかな大きな布を取り出すと硬いマットレスの上に広げ、更に柳の枝を編んで作った天蓋を取り出した。
天蓋には白くて、サラサラした手触りの柔らかい布が取り付けられ、持ち上げると、ふわりと揺れる。
それを黒いリボンで天井に吊るすと、レースのついた小さなクッションや手縫いのぬいぐるみを取り出してベッドに並べた。
「よし、と」
リリアは満足気な表情で立ち上がると、次に衣類の入った鞄から白い半円形のエプロンを取り出して身に付ける。
それからベッドの下に付属されている棚に本をしまって、黒いレースとリボンで作ったカーテンで本棚を隠した。
室内は夕方になる頃にはすっかり綺麗に整って、窓際にあった備え付けの小さな棚にはティーセットやお茶の葉、そしてキャンディポット。
窓には小さなぬいぐるみが置いてある。
仕上げとして床に小さな敷物を敷くと、その上にテーブルを移動させると、すっかり暮らしやすくなったキャラバンの中を見回して、リリアは満足そうに頷いた。
外を見るとそろそろ開演の準備をする頃だろう。
団長やサーカス団の仲間たちに改めて挨拶をするため軽く身支度を整えると出て行った。
夜、コイン集めを終え団長のキャラバンへ戻ろうとしていたその子は、ふと歌姫のキャラバンの方へ顔を向けた。
今朝彼女に優しく、親しげに声をかけてもらったことが何と無く胸の辺りに引っかかっていた。
少し歩くと、窓から漏れる光がないことに気が付き、同時に窓辺に飾られた小さなぬいぐるみを見つける。
なんだろう?
その子はキャラバンの隣に設置されている木の柵へ近付くと、何とかよじ登る。
窓の淵に小枝のように細い指を引っ掛けて、背伸びをすると少し中が見える。
どうやら女の人はいないようで、キャラバン内は真っ暗だ。
目を凝らすと何だか色々な物が所狭しと置いてある。
どれもこれも不思議な物ばかりだ。
見たい。
その子は柵を降りるとキャラバンの入り口へ周り、ステップを上がった。
ドアノブを回すと、ドアは開き薄暗い室内が見える。
その子は恐る恐る中へ入ると電気のスイッチを押した。
数回パチパチと点滅してから、ようやく電気がつく。
「わあ…」
その子の口から思わず溜息が漏れるほど、キャラバンの中は綺麗だった。
沢山のリボンやレース、ぬいぐるみや装飾品に囲まれた室内で、その子はうっかり何かを汚さないようにと自分の両手を胸のところで握り合わせ、そろりそろりと室内を見て周った。
どれもこれもその子にとっては珍しいもので、ぬいぐるみもティーセットも何に使うものなのか見当もつかない。
「なんだろう…?きれい…」
色とりどりの花や葉っぱが入った瓶が小さな棚に所狭しと並んでいる。
別の棚には小さな箱や、やっぱり瓶が並んでいるが、こっちの瓶の中身は液体のようだ。
何だか花のような、綿菓子のような、甘い香りがする。
「あれ…?」
備え付けのクローゼットにステージ用の衣装がかけてある。
と、いうことは彼女は今ステージに立っていないのだろう。
こつん、と背後で足音が聞こえ、その子は恐る恐る振り向いた。
「あ…」
「…あら?」
サーカスの仲間たちへ挨拶も無事に済み、キャラバンに戻って来たリリアは電気のついた室内を不思議に思い、そっとステップを上がると、室内を覗き込んだ。
すると、思ってもみなかった小さなお客様が居ることに、思わず声を挙げる。
途端にその子の身体が大きく跳ね、驚かせてしまったことを知ったリリアは指先で自分の口を塞ぐ。
「あ、ごめんなさい!驚かすつもりはなくて…。」
そっと声を掛けると、その子は怯えた目でこちらの様子を窺っているようだった。
「あなた、さっきキャラバンの下に居た子よね?」
リリアは嬉しそうに微笑んで話し掛けてみるが、その子の耳には届いていないようだった。
ただでさえ「邪魔だ」とか、「汚いから」だとか理不尽な理由で故意に突き飛ばされたり、蹴られたりされることがあるのに、勝手に侵入したことがバレてしまった今、どんな罰が下されるかわからない。
泥棒だと罵られて叩かれるかもしれないし、団長に言いつけられたら1日の僅かな食事を奪われてしまうかもしれない。
そう考えると息は止まりそうなのに、心臓はうるさいほど脈打ち、身体に熱が篭る。
しかし背中を伝う汗は冷たく、身体は熱いはずなのにとても寒かった。
「ねえ?」
こちらを振り向いたまま、凍り付いたような表情で固まっているその子の様子がおかしいことに気付いたのか、リリアは少し心配そうに声を掛けた。
「大丈夫?」
リリアは小首を傾げてから、まだ動かないその子を安心させてあげようと歩み寄ろうとする。
その途端我に返ったその子はテーブルの下を夢中でくぐり抜け、リリアが止める声も聞こえずにキャラバンを飛び出した。
「…ああ、また逃げられちゃった…」
リリアは落胆の表情を浮かべてから、ふと、その子が何を見ていたのかが気になりその子がいた場所に立ってみたが、ベッドのそばにいたらしく、特にこれといった物は見当たらない。
もしかしたらベッドの上にあるぬいぐるみをみていたのかもしれない、と思って彼女はくすりと笑った。
それにしても、どうしてあの子だけあんなに汚れているのだろう?
サーカスにいるのだから、あの子も仲間のはずだが、どうしてキャラバンの下にいたのだろう?それにあの子だけ酷く痩せている。
何か事情があるにしても、まるで彼だけ除け者にされているみたい。
リリアはキャラバンのドアを閉めると、しばらくあの子のことを考えていたが、やがてベッドに腰掛けた。
翌日もその子はキャラバンの下に居た。
昨晩はコインを団長へ渡す時間が遅くなって怒られてしまったが、パンと水はもらうことができた。
しかし今夜にはあの歌姫の人が団長に言いつけて、パンも水ももらえなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、お腹が空いてもポケットの中の菓子屑には手を伸ばすことができなかった。
ふいに向こうの方から彼女の姿が見え、思わず身を固くするが、どうやらリリアもその子がキャラバンの下に居るのが見えているらしく、迷うことのない足取りでこちらへと近付いてくると、ひょいとキャラバンの下を覗き込んだ。
「1人じゃハイドアンドシークはできないんじゃない?」
無邪気で明るい声と笑みに、その子は目を逸らした。
リリアは少し考えると「私もお邪魔していいかしら?」と、また声をかけるが、その子は驚いた表情で首を振る。
「あら、どうして?」
と、リリアが訊ねれば小さく掠れた声で「服が、汚れる…」と返ってくる。
しかしリリアは反応があったことが嬉しく、もう少しだけ覗き込むと
「じゃああなたは、どうしてそこにいるの?」
と、また訊ねた。
その子は少し居心地が悪そうに身体をもぞもぞ揺らすと
「僕は、汚れてる、から…」
と、とても小さな声で返し、リリアの興味津々といった視線に耐え切れなくなったのか、やがてキャラバンの下から這い出て来た。
「…昨日の、夜のこと…怒らないの…?」
勇気を出して訊ねると、リリアはきょとんとした表情で首を傾げた。
恐らくは昨晩勝手にキャラバンに入ったことを言っているのだろう。
しかし怒ってはいないし、彼女は「うーん」と小さく唸ってから、
「何かしたと思うのなら、それを謝ってちょうだい」
と微笑む。
すると、その子は両手を胸の前で握り合わせたまま、躊躇するように視線を逸らしていたが、やがて先程よりももっと小さく掠れた声で「ごめんなさい」と囁いた。
その子はキャラバンの窓からぬいぐるみが見えたこと、窓から覗いてみたら不思議なものがたくさん見えて、部屋の中を見てみたくなったことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
それを黙って聞いていたリリアは、その子が話し終えると、にっこり笑って「いらっしゃい」と、自分のキャラバンへ案内した。
その子は戸惑った表情を浮かべながらも大人しくついて行き、キャラバンの中を見回す。
心なしかその目は輝いているように感じ、リリアは入り口で立ち尽くしているその子に再び手招きして椅子を勧めた。
するとその子は驚いて大きく首を振る。
その子は人に椅子を勧められるどころか、椅子に座ったこともなかった。
「どうして?」
不思議そうに小首を傾げるリリアに、その子は困った様子で「汚れる、から…」と、短く答える。
気にしなくていいと言っても首を振って入り口から動かない。
彼女は少し考えて、戸棚から小さく綺麗な箱を取り出すと再び、
「いらっしゃい」
と、今度は外へ連れ出した。
リリアはその子にキャラバンのステップに座って待つように言ってから、綺麗なドレスの袖を捲り上げ、サーカスのテントの方へさっさと歩いて行ってしまった。
その子は言われた通りにステップに座り込むと隠れるように膝を抱えて身を縮める。
しばらくしてリリアは大きな金だらいを引きずるようにして持って帰って来ると、小道具係りの大きなキャラバンのドアを叩く。
すると、小道具係りのジョセフがひょっこりと顔を覗かせ、2人は何かを話合い始めた。
時々ジョセフがこちらを一瞥する。
やがて彼は小さく肩をすくめるとリリアの後ろについて、2人でどこかへ行ってしまった。
「…お腹、すいた…」
その子は抱えていた膝にコツコツと額をぶつけると、いよいよポケットに手を突っ込んでお菓子の欠片を食べ始めた。
何が始まるのかはわからないけれど、あの人は自分のことがあまり嫌いではないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、リリアが小走りでどこかへ走って行くのが見える。
リリアとジョセフが忙しそうに走り回るのを観察して、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
リリアが楽しそうに駆け寄って来て、その子の顔を覗き込んだ。
「お待たせ、仔ウサギちゃん!さあ、こっちへいらっしゃい!」
リリアがその子の背中に手を添わせると、その子は驚いたのかビクリと肩を震わせた。
その子にとっては誰かが自分に触ることなんて、叩いたり、小突いたりするする時くらいなもので、彼女のように優しく触れてもらうのは初めてのことだった。
彼女の誘導するままついて行くと、先ほどの金だらいの前に立たされる。
中には水が入っていて水面が風にすれると、ふわりと何かが宙に舞う。
「1人で脱げる?」
これは何だろう?と金だらいを見つめるその子の顔を覗きこみながら、リリアが心配そうに訊ねる。
それを聞いてその子は小首を傾げた。
「…脱ぐ?…」
何故?と聞く前にリリアに思い切り服の裾を掴まれる。
「じゃあ私がやるわね!はい、両手を上に上げてちょうだい!」
「うわわわわわ」
驚いて悲鳴にも近い声を上げるが、リリアは気にせずその子から服を剥ぎ取った。
パラパラとポップコーンのカスや、土や乾いた泥、それからキャラバンの下に居た時に服に潜り込んだのであろう小さな蟻たちが落ちる。
この服はもうダメね。
リリアは口にすることはなかったが1人頷くと、下着に手をかけようとした。
「あら?」
しかしその子はそれ以上何も身につけてはいなかったようで、既に裸の状態だ。
「あれ?あなた下着は…あら?男の子だったのね!私てっきり女の子かと思っていたわ」
その子は何のことかわからなかったが、リリアは困った様子で「どうしましょ」と金だらいの側に置いたカゴに目をやる。
しかし次の瞬間「ま、いいか」と再びその子に向き直った。
「さ、この中に入ってちょうだい!」
金だらいを指差し、もう片方の手でその子の背を優しく誘導すると、その子は少し戸惑いながらも金だらいの中に足をつけた。
「わっ」
水はとても温かく、リリアに促されるまま座ると、腰辺りまで温かい水に浸かった。
冷えて白くなっていた指先がじわじわと赤みを帯びていく。
「さてと!じゃあ身体を洗うからジッとしていてね」
リリアは一言そう告げると、その子の頭の先から温かい水を流す。
驚いて身体を震わせるが、リリアは気にせずに綺麗な箱から何やら白い物を取りだして、それを擦り始める。
「それは、なに?」
段々泡立ち始める良い匂いのそれを見つめていると、リリアはその泡をその子の頭にそっと乗せながら「石鹸よ!良い匂いでしょ」と答えた。
それからその子の頭をわしわしと洗い始める。
その間にどこからかジョセフがまた金だらいを持って来て、同じように温かい水で満たしていく。
その子のことには大して興味もなさそうだったが、リリアが何か話すと、その通りに動いているようだった。
ふと自分が入っている金だらいの水が酷く濁っていることに気が付き、その子は寂しそうに水面を撫でた。
「さ、今度はこっちのたらいに入ってちょうだい!ジョセフ、こっちお願いね」
リリアに誘導されるままにもう一つの金だらいに入ると、先ほどよりも少し温度が高い。
ジョセフはその汚れた水をその辺にまき散らすと、どこかへ行ってしまった。
リリアは気にした様子もなく、再びその子の髪をわしわしと洗い始める。
何だか頭の上が泡だらけになってきた。
それから柔らかな何かで身体を擦られる。
「海綿だから痛くないでしょ?退屈じゃない?」
優しく首元を洗いながら、リリアは怖がらせないように声をかけた。
その子は少し緊張した面持ちだったが、柔らかな海綿で身体を洗われるのは心地が良いらしく、少し目を細めて首を横に振った。
「痛いところはなぁい?」
優しい声音の問いに、また首を振る。
続いて腕を洗い始めると、ジョセフがどこからか戻って来てまた温かい水を金だらいに注ぎ始める。
「ちょっと熱すぎない?」
リリアが彼に声をかけると、ジョセフは肩を竦めて
「そっちが終わる頃には適温だろ」
と答えて、その場にしゃがんだ。
リリアは根気よくその子の身体を洗い続け、足の先まで洗い終わる頃には、夕方になっていた。
ジョセフはその間も何度となく温かい水を交換し続け、まき散らした水のおかげで辺りは水浸しで、通行に支障はないものの、まるで沼地のようだった。
「ふう…」
さすがに疲れたのか、リリアは溜め息をついて汗を拭うと、すっかり綺麗になったその子の身体をタオルで包んだ。
その子もさすがに疲れたのか小さく息を吐き出す。
「ふふ、仔ウサギちゃん。すっかり見違えたわ!綺麗な金髪ね」
リリアは嬉しそうに身体についた水滴を拭って、それから急に申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめんね、あなたのこと女の子だと思っていたから…」
そう言ってカゴから取り出したのは、レースと刺繍が施された真っ白なシュミーズだった。
だけど何も着せないよりかは、とそれをその子に被せる。
その子は両手を胸の前でぎゅっと握り合わせ、目もしっかり閉じた。
「そんなに緊張しないで、下着で申し訳ないけどドレスはあなたのサイズに合わせられないから…。大丈夫よ、腕を通してみて」
そう言うと、その子はリリアの表情を窺いながら、そろりそろりと腕を通し、リリアはカゴから更に裁縫道具を取り出して、その子の丈に合うようにたくし上げた。
「お腹が空いたから何か食べましょう」
自分の姿を見下ろしているその子の背中に手を添えて、キャラバンへ誘導する。
その子はおそるおそるキャラバンのステップを上がると、恐々室内に入った。
「さあ、綺麗になったから座ってくれるわね?」
先程の椅子を勧められると、その子は戸惑いながら少し立ち尽くしていたが、やがてリリアに再度促されるとようやく椅子に腰かけた。
「やった!仔ウサギちゃんがやっと座ってくれた!あ、ごめんなさい。嬉しくて、つい」
リリアは本当に嬉しそうに手を叩き合わせると、「ちょっと待っててね」と言って小さなキッチンからティーポットを取り出しお茶の支度を始めた。
ディナーの時間も近いから、と彼女は塩漬けした肉と今朝早く市場で仕入れたカブを切り分けると、豆やハーブと共に小さな鍋に入れて火にかけた。
「あ、そうそう!今日は朝に町へ行ったからパンがあるのよ」
戸棚からパンを取り出して小さなテーブルに置くと、その子は慌てて椅子から飛び降りた。
「わっ、どうしたの?」
「あ、あの…!僕、し、しごとが」
あまりの出来事にすっかり忘れていたが、いつもならとっくにコインを拾いにサーカスの広場へ行っている時間だ。
「あら、あなたそんなに小さいのに仕事があるの?」
サーカスの舞台に立ったり裏方の仕事をしたりできるほど筋力があるようには見えないし、芸の練習をしているところも見ていない。
「あの…大人が落とした、コインを拾って、団長に渡すんだ…」
早く行かなくちゃという思いと、リリアの質問に答えなくちゃという思いの間でじりじりと後退りながら答えると、リリアは少しだけ眉を顰める。
その表情に思わずその子は立ち止まった。
「そんな泥棒みたいな真似しなくていいわ。団長には私から言っておくから、あなたはこっちへ座っていらっしゃい」
そう言うと彼女は火を止めて、キャラバンから出て行った。
その子はどうしようかと迷ったが、こんなに綺麗にしてくれたのに彼女に対して徒になってしまったら彼女は悲しむかもしれない。
そう思うと出て行こうにも出ていかれない。
だけど団長の機嫌を損ねたら、最悪サーカスから追い出されてしまうだろう。
彼は自分を育ててくれてはいるが、親ではないのだ。
「...ごめんなさい…」
その子は小さく呟くと、キャラバンのドアノブに手をかけようとした。
しかしその瞬間キャラバンのドアが開き、驚いたリリアが小さく悲鳴を上げた。
時間は思ったよりも過ぎていたらしく、悩んでいる間に彼女が戻って来てしまったようだ。
「ご、ごめんね。てっきり椅子に座ってるかと思ってたの。そんなところに立っていないで座っていたら良かったのに」
ふふ、と笑うとまた彼女は背中に手を添えて椅子へ誘導する。
「でも…」
不安そうに彼女を見上げると、彼女は「大丈夫よ」と言ってその子を椅子に座らせた。
「ディナーの支度をしながらで悪いんだけど、」と言いながらまたキッチンへ向くと、再び火を入れる。
「あなた孤児なんですってね。私があなたのお世話をすることにしてもらったから、コイン集めはもうしなくていいわ。今夜は悪いんだけど、団長のキャラバンに泊めてもらって明日このキャラバンにあなたの寝るところを用意しましょう。私もあと1週間くらいは環境に慣れなくちゃいけないのと、お稽古があってサーカスに出られないから、その間に何とか模様替えするわ」
その子はその話を信じられないといった面持ちで言葉も挟めずに聞いていた。
彼女はどうして自分を引き取ることにしたんだろう、という疑問が頭の中をぐるぐる回っているが、目の前にことりと置かれたスープに思わず視線を移す。
「さ、お待たせ!ご飯にしましょ」
リリアは更に紅茶を淹れると自分も椅子に座った。
「ううう」
良い香りの湯気が立ち昇るスープに、その子は思わずごくりと喉を鳴らす。
温かな食事など初めてだ。
毎日毎日小さな硬いパンと水だけで、ごく稀に団長が残した冷めたスープを与えられたら、それがご馳走だった。
「どうしたの?ハーブは嫌い?」
そう訊かれて、その子は慌ててスプーンを握ると一口をそっと口へ運び、目を輝かせた。
塩漬けにした肉の汁やハーブの味がふわりと口内に広がる。 豆もカブも柔らかく、噛めば温かなスープが滲み出てきた。
スープで煮込まれたことによって柔らかくなった肉は噛んでいるうちに脂が溶け出し、飲み込むのが惜しい程だ。
「パンも食べてね。この紅茶もあなたの分よ」
リリアはずっとスープの肉をもぐもぐと噛み続けているその子の方へパンの皿を押し、カップも近付けてくれる。
その子はおそるおそるパンを手に取ると、その柔らかさに目を見開いた。
思わず指の先で柔らかさを確かめると、口へ運んだ。
ふわりと小麦の匂いが漂う白いパンは、いつも食べている物に比べ簡単に噛み千切れる。
「美味しい?」
リリアに訊ねられて、その子は顔を上げた。
「…おいしい…?」
何を訊かれたのかわからない様子で首を傾げるその子に、リリアはにこりと笑った。
「いいのよ。そのうち色々教えてあげるわね。ところで今更なんだけど…あなた、名前は何て言うの?」
ずっと仔ウサギみたいだから仔ウサギちゃんと呼んでいたが、これからもずっとそう呼ぶわけにもいかない。
するとその子はまた何を訊かれたのかわからない様子だ。
「私にはリリアって名前があるの。リリアって呼んでちょうだいね。私はあなたのことを何て呼んだら良いかしら?」
つまりサーカスだったり、カサンドラだったり、団長だったりとその物を表すもののことだろう。
その子は少し考えると、一番呼ばれている言葉を口にした。
「えっと…"そこのおまえ"?」
リリアは驚いて思わずぽかんと口を開き、思わず「何ですって」と言葉を漏らした。
汚れて痩せこけて名前も無い。間違いなく彼だけ除け者にされているし、誰もこの子のことを気にかけもしない。
同じサーカスの仲間なのにこんなことがあって良いのだろうか。
「問題外だわ、それじゃダメよ!それは名前ではないの。なんてこと…」
悲しそうに眉尻を下げるリリアに、怒られるだろうか?と彼女の様子を窺いながら、何か言おうと口を開いたり閉じたりしていると、彼女は「いいわ」と今度は目を輝かせる。
「私が名前を考えてみるわね!」
それからああでもない、こうでもないと食事も忘れて名前を考え始めた彼女に、なんて表情がよく変わるんだろうと半ば驚きながら、でも怒られずに済みそうだと安心したのかその子は再びスープを口へ運び始めた。
翌日、誰かがキャラバンのドアをノックする音で目が覚めた。
サラサラと流れる金髪に驚いて飛び起きると、揺れるシュミーズの裾が目に入る。
思わず自分の姿を見下ろすと、荒れてはいるが色白の肌が見えて、その子はようやく昨日のことを思い出した。
いつも食事が置いてあった場所には、団長はもう自分には関係が無いと思ったのか、今日はパンも水も用意されていなかった。
トントントン
再び聞こえたノック音に慌ててドアを開けると、そこにはリリアが居て、その子を見ると嬉しそうに微笑む。
「おはよう!これから町へ行くんだけど、あなたもいらっしゃい」
そう言ってステップを降りると、その子も後をひょこひょことついて行く。
町へ続いているらしい林の小道を歩きながらリリアは買うものを考えているようだった。
「ええと、シーツに毛布でしょ…それから洋服に、下着…」
それから2人分の食材も必要だ。
指折り数えながらぶつぶつと呟き、ふとその子がついて来ているか隣を確認すると、姿がない。
慌てて辺りを見回すと、彼は少し後ろを黙って歩いていた。
シュミーズの裾が気になっているのか、自分の姿を見下ろしながらフラフラついて来る。
「びっくりした!お願いだから隣を歩いてちょうだい!あ。そうだわ、私名前を考えて来たのよ!」
買い物に気を取られて忘れていたようだが、次の瞬間には楽しそうに手招きをし、その子がリリアの隣へ駆け寄ると、彼女はその子の手を繋いだ。
「わ。」
一瞬ビクッと体を震わせるが、リリアが「あのね」と口を開いたので彼女を見上げた。
綺麗な金糸の髪がサラサラと揺れて、木々の隙間から漏れる光を反射しているようだった。
「あなたの名前はリノに決めたわ。これから”お名前は?”って訊かれたら、”リノです”て答えてね」
リノを団長のキャラバンへ送った後、彼の寝る場所を確保するために家具を動かしながらずっと考えて考えて決めた名前だ。
「…リノ…」
その子が繰り返すのを聞いて我ながら良い名前だ、と1人頷き「そうよ」と嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、改めて。私はリリアよ、あなたのお名前は?」
その子の前にしゃがみこんで訊ねると、その子は少し照れくさそうに、けれど目を輝かせて笑った。
「僕は…リノです」
そう口にすると、なんだか嬉しいのに首の後ろがムズムズとくすぐったくなるようだった。
思わず自分の手をぎゅっと握り合わせると、リリアは頭を撫でてくれる。
「そうよ、リノ。私たち、血は繋がっていないけれど、家族になりましょうね。私の故郷にもあなたと同じくらいの年の男の子がいるの。弟なのよ。あなたも私の弟になってね。忘れないで、私たちは家族なの」
リリアの言葉は彼にはまだ少し難しかったが、それでも”家族だ”という言葉に胸の内がじんわりと温かくなる。
何があっても今日のことを忘れることは無い。
リリアと過ごす日々を、きっと一欠けらだって記憶から零れ落とすことはしないだろうと、リノはそう心の中で呟いた。
色々な店が並び、店の側を通るたびに香ばしい匂いや、甘い匂いが香る。
その隣を歩きながらふと並ぶ店に視線を移すと、そこに自分の姿が映ってることに気がついて思わず立ち止まった。
ところどころ肌は荒れていたが、泥も草もついでいない。
ベトついて濁っていた髪は歩くたびにサラサラと風に揺れ、彼にとっては今までに無いほどきちんとした服を着ている。
その様子に気が付いたリリアはくすりと笑うと、「いらっしゃい、おちびさん」とリノを呼ぶ。
「あ、ご、ごめんなさい…」
彼は慌ててリリアの許へ駆け寄ると、リリアは彼の頭を撫でてから店の中へ入って行く。
リノもこわごわと店の中を覗いてみると、思わず息をのんだ。
シンプルな服から色んな色の布を使ったドレスや、リボンや布などがそこら中に並んでいる。
仕立ての最中なのか床にも布が散乱していたが、リリアは踏まないようにすいすいと歩いて行き、リノはじっと入口に立ち尽くした。
「こんにちは、あの子のドレスとシュミーズをお願いしたいのだけど」
そういうと、店の女性がこちらを振り向く。
リリアも入口からちっとも動かないリノを振り向いて手招きをすると、リノに「どんなのが良い?」と訊ねた。
どんなの、と言われても生まれてこの方服と呼べる物はこのシュミーズしか来たことがない。
もっともボロ雑巾のような汚れて穴だらけの、下着か服かむしろ布なのかわからない物を服と呼ぶのであれば、これは2着目だが。
「僕…あの、これが…良い」
リノがシュミーズを見下ろしながら嬉しそうに呟くと、リリアは「あら」と目を見開いた。
「じゃあ女の子の服で、シンプルめの服が良いかしら。肌が荒れてるから布は柔らかいものにしてちょうだい。あ、裾には柔らかいレースと、途中にフリルも入れてほしいわ!」
リリアは下着を3枚と、シンプルな服を2着、煌びやかなドレスを1着、それからサーカス用にと可愛らしいドレスを1着注文して、店を後にした。
「服ができるまでに数日かかるでしょうし、しばらくはそれで我慢してね」
リリアにはそう言われたが、とんでもない量の買い物に気を取られていたリノの耳には届いていなかった。
この人は何を考えてそんなにたくさんの服を買ってくれたのだろう?と頭を埋め尽くすのはそればかりだ。
気が付いたらまたどこかの店で、今度は椅子に座っている。
「あら、ぼんやりさん。お目覚めかしら」
くすりと笑ってリリアがブリオッシュをリノの皿に乗せた。
ソーセージとチーズ、茹でた卵が乗ったを彼の方へ軽く押しだし「朝ごはんにしましょ」と微笑む。
「キイチゴのジャムよ。こっちはバターね。こうやって塗って食べるのよ」
リリアの言われた通りにブリオッシュにバターやジャムを塗って口へ運ぶと、途端に目を輝かせる。
「んんん!ううう!」
奇声のような、唸り声のような声を上げて彼はリリアを見上げた。
「”美味しい”のね、良かったわ」
リリアは言葉だけでなく、フォークの使い方や食事の仕方も教えてくれた。
ソーセージは切りながら食べると食べやすい、とかバターは温かいと溶けてしまうとか、熱い物は息を吹きかけると段々冷めるとかそんなものだったが、何も知らないリノにとっては何もかもが初めてのことだった。
食事が終わるとリリアは更にシーツと毛布、それから食材をいくらか購入すると両脇にそれらを抱え込んで、
「さ!もう持てないから帰りましょ!」
と、気合半分にそう告げる。
リノはもう驚きを通り越してどうしたら良いのかわからないといった表情のまま、黙って彼女の隣を歩いた。
今日だけで一体彼女にどれだけのコインを使わせてしまったのだろう。
あの拾い集めたコインでは到底足りない程のコインを、彼女は支払っていたように見えた。
団長はコインを渡す時にいつも「コインの1枚も無駄にしてはならない」と言っていた。
大事なコインをあんなにたくさん…。
「ううう…」
考えれば考える程に何だか恐ろしくなってくる。
小さく呻ると、「どうしたの?ぼんやりさん」と頭上からリリアの優しい声が降って来た。
歌姫をしている彼女の声は綺麗な湖のように透き通っていて、それでいてお日様みたいな温かさがある。
きっとステージに立っている時も彼女は綺麗なんだろうな。
サーカスへ戻るとリリアは練習へ出かけて行った。
「服、汚さないようにしなくちゃ…」
間違ってもキャラバンの下へは潜れないし、潜ったらおそらくリリアに怒られるだろう。
かといってリリアがいないのにキャラバンの中に居てもいいものだろうか。
リノはしばらく室内や外をうろうろと歩き回っていたが、やがて部屋の隅の箱に昨日まで着ていた服を見つけるとシュミーズを脱いで椅子にかけると、それを着ると外へ出た。
リリアが戻って来るまで外にいよう。
そう考えてステップに座っていたが、やがて日が落ちサーカスの広場が客で賑わってくると、リノは広場へふらりと足を運ぶ。
キラキラ光る電飾や、煌びやかな装飾、ポップコーンが弾ける音に、甘いキャンディの匂い。
少し良い服を着た客の間をふらふらと歩いていると、キャンディを買おうと並んでいた親子の足元にコインが落ちていることに気がついた。
きっと親子が落としたのだろうと拾い上げ、声をかける前に服で泥を拭うと、
「何をしている!」
急に大声が降って来て、パッと顔を上げると父親らしい男がリノを睨み付けていた。
「あの、これ落とし…」
「金を盗んだな!汚いコソ泥め!!」
その大声に、丁度練習を終えたリリアが気付いたと同時に男はリノの小さな身体を突き飛ばした。
泥の中に尻餅をついた彼を見て、側を通りかかった淑女が「汚い子ねぇ」と悪態をつく。
いつの間にか彼らの周りを野次馬たちが囲んでいる。
自分を見下ろす人々の悪意に満ちた目に、リノの心臓は凍り付くようだった。
身体が冷えて、立ち上がることもできない。
「ちょっと!うちの子に何するのよ!!」
普段の声からは想像もできない程鋭い声で、リリアが男とリノの間に割って入る。
彼女は今にも掴み掛りそうな程の剣幕で男に詰め寄ると、男も負けじと言い返す。
その騒ぎを聞いて「喧嘩だ」「喧嘩だ」と更に人々が集まって来ると、男は慌てて子どもを抱えてその場を去って行った。
「信じられない!お金を拾ってもらっておいて、お礼も言わないどころかこんなに小さい子を突き飛ばすなんて!」
リリアはまだ怒りで肩を震わせていたが、「あ」と小さく声を上げるとリノを振り返る。
呆然としている彼に「大丈夫?」と声をかけ立ち上がらせると、キャラバンへと戻った。
「その服はもう着なくていいのよ、リノ。今お湯を持って来るから、その服を脱いで元の箱へ入れておいてちょうだい」
リリアはまだピリッとした空気を纏ってはいたが、なるべく優しい声でそう言うとキャラバンを出て行った。
リノはぼんやりした頭で、言われた通りに服を脱ごうと手をかけた。
「あ…。」
箱の側に置かれた鏡に自分の姿が映る。
泥だらけで、ずぶ濡れだ。
汚い。その言葉が脳裏を横切り、彼の目から涙が零れた。
リリアは毎日毎日色んなことを教えてくれた。
文字や数字、薬草の見分け方や、裁縫の仕方、料理のやり方など、勉強から家事から生きる上で必要そうなことは何でも、繰り返し繰り返し。
失敗しても怒ることも呆れることもせずに、いつもにこやかだ。
色々な国や町へ移動すると、その先で文化や食べ物のことなどを調べて教えてくれる。
一度団長が「あまり贅沢をさせるな」と小言を漏らしたことでリリアと大喧嘩になったが、リリアはリノに色々な食べ物を与え、ナイフやフォークの使い方も教えてくれた。
「えっと…はちみつ…しょこら…どれす…はな…」
リノはリリアと町を歩きながら看板に書いてある文字を読み上げ、正解するたびに嬉しそうに笑った。
「うふふ、大分色々読めるようになったわね。偉いわ」
よしよしと頭を撫でると「あら、可愛い姉妹ねぇ」と通りすがりの婦人に言われ、リリアは小さく会釈をする。
「あ。リリア、見て!鳥だ!」
リノがはしゃいで駆けて行くのを見守りながら、その後ろをついて行く。
彼はしっかりした足取りで走れるくらい成長し、ある程度きちんとした作法やマナーを身につけて、おどおどした不安そうな態度から無邪気に笑う少年へと変化した。
それでも相変わらず着ている服は女の子の物だし、可愛いものや綺麗な物が大好きだ。
リリアはそれを不思議に思うこともなかったし、リノが好きなものを大切にしてほしいと思っていた。
「ねえ、聞いた?」
ふと、声を潜めて話す声が聞こえ何となくそちらへ顔を向けると、
「まだ魔女狩りが行われているところがあるそうよ…」
と噂話をしている。
「魔女狩り…」
リリアは少し眉尻を下げて溜め息をつく。
「どうしたの…?」
リノが不安そうな表情で見上げてくるのが見え、彼女は慌てて微笑んだ。
「何でもないわ。それよりパイでも買って行きましょうか」
"パイ"と聞くとリノはパッと顔を輝かせて大きく頷くとリリアの手をとった。
リノを引き取ってもう5年程になるが、こうしていると本当の家族のようだ。
「サーカスの子だもの、何か芸を教えてあげるわね」
そう言って玉乗りを教えてくれてから、リノはリリアが練習している横で一生懸命玉乗りの練習をして、リリアが食事を作る時には隣で手伝いをした。
裁縫は苦手だったが、始めて小さな刺繍を完成させた時は二人で手を叩いて喜び合ったし、7歳になるころには本も読めるようになり、文字もかけるようになったことで2人は時々手紙を交換し合った。
10歳を迎える頃にはすっかり玉乗りにも慣れ、まるで地面と変わらないかのようにころころと転がしながら移動することができるようになった。
リリアの舞台衣装とそっくりな衣装を仕立ててもらい、それを着ながら練習していると、
「そろそろショーに出られるかもしれないわね」
と、彼女が楽しそうに笑ってくれる。
リノはそれがとても嬉しかった。
「今度の町で行うショーに出てみましょうよ?ピエロさんたちと一緒でも良いし、私が歌ってる隣でもいいわよ」
ある日の温かな春の日差しの下、キャラバンから伸びた日よけの下で「名案だ」というように両手をぽんと叩き合わせるリリアに、リノは慌てて首を振った。
あまりに大きく首を振ったので、座っていた小さな樽がぐらぐらと揺れる。
「そ、そんなの無理だよ!リリアの綺麗な歌声を邪魔しちゃうだけだし、僕はまだ魅せるようなことは何もできないから...」
舞台に上がったことすらないのに突然ショーになんて無理に決まっている。
それでもリリアは一緒にショーをやりたいようで、田舎の小さな村だし大丈夫だと説得しようとしたりするものだから、練習の時だけリノも参加するということになってしまった。
「うううっ…本番じゃないとはいえ、団長に怒られないかなあ...」
不安そうに眉尻を下げると、リリアは「大丈夫よ」と軽く答える。
その気楽さが頼もしかったり、困ったりするのだが、彼女が嬉しそうなので結局まあ、いいかと流してしまう。
その後、結局近いうちにピエロたちに紛れて少しだけショーを経験することに話がまとまったらしく、リノは心の中で悲鳴を上げた。
「それじゃあ練習はこれで終わりね。私はショーの準備があるから、チケット販売の方をお願いね」
「わかった!」
リノは元気良く返事をすると入口の方へ駆けて行った。
コイン集めをしなくなって、ずっとリリアの手伝いをしていたが、少し前から売り子として仕事をもらっている。
チケット販売用の小型テントに入ると、大人用と子ども用のチケット、それから釣銭を用意して椅子に座った。
まだショーが始まるまで時間があるのだが、他にやることもないからといつもここで本を読んでいる。
とは言ってもまだ単語、単語を拾うのにいっぱいいっぱいで、どんな物語なのか考えている余裕はなかった。
「あの噂の歌姫ってここにいるんだろ?」
ふと誰かの声が聞こえて顔を上げると、見知らぬ男が数名、控室に繋がる出入り口を覗いているのか見える。
転んで怪我をしたのか、先ほどの集団に傷つけられたのか、泥だらけで血が滲んでいた。
「…なんで…」
リノは彼女を見上げると、その異常さに小さく声を洩らした。
彼女は人集りの後ろからでも見える程の長い柱の上の方に、太い縄で括り付けられ、炎が燃えているのか、煙が上がり灰や爆ぜて散った火の粉が舞っている。
その時、ふわりと風が俯いていたリリアの前髪を揺らし、彼女は顔を上げて、真っ直ぐにリノを見つけた。
灼熱で朦朧とする意識の中、彼女はこちらを見上げたまま青ざめている弟に、優しい笑顔を向けると、
「生きて」
と囁く。
その声は小さく、罵声を上げる人々の耳には届かなかったが、彼女の愛した弟の耳には確かに届いた。
次の瞬間炎を乗せた風が恐ろしい勢いで吹き上がり、人々は思わず顔を覆った。
彼は声を上げることも、身動きをすることも、瞬きすらできずに燃え上がる炎の柱を見つめていた。
リリアがすっかり消えてしまい、彼女の骨がボトボトと地面へ落ちていき、燃え残った服の一部や灰などが地面へ積もっていくのを見ても、彼はまだ動けなかった。
「魔女は死んだ!」
誰かの声が合図となり、その人集りにいた人々が”我先に”と奪い合うように、彼女の骨や灰に群がった。
やがてすっかり何もなくなって、人々も去り始めた頃、リノはようやく1歩を踏み出すことができた。
何もなくなった”そこ”へ近づいて行くと、黒い灰で汚れた地面が見える。
「…あ…」
燃え残った木材の中に、何かが光っているのを見つけ、リノはゆっくり近づくと、そっとそれを手に取った。
それはリボンだった。
リリアが気に入って、いつも髪を結ぶときにつけていた、小さなウサギの飾りがついた黒いリボンだ。
リボンは焼き切れて、短くなっているが、ウサギの飾りは重みで早くに落ちていたのか綺麗な状態だった。
「あつっ…」
炎で熱された飾りは持てない程ではなかったが、まだ熱く、指先が赤くなる。
『仔ウサギちゃん』
そう呼ばれたのを思い出して、彼はようやくリリアが死んでしまったことに涙を流した。
リリアの名前を何度も呼び、大きく泣き声を上げる小さな彼を、誰かが指差して
「魔女の手下だ!」
と恐怖に怯えた声で叫ぶ。
リノはそれに気がつくと、急いで逃げ出した。
自分でも驚く程しっかりと走っている。
人々の罵声が背後に迫る中、リノは走り続けた。
村を抜けて、道を走り抜け、森へ逃げ込むと、村人たちはようやく追うのを諦めたようだったが、リノは止まらなかった。
涙で足元も見えずに何度も転んでは立ち上がり、走り続けた。
「うぁっ」
太い木の根に足を取られ、地面に思い切り叩き付けられた拍子に、手に持っていたリボンがポンと投げ出されたのを見て、慌てて立ち上がろうとした彼の足首に鋭い痛みが走り思わず動きを止める。
パッと振り返って見ると、鋭い木の枝が足首に突き刺さっているのが見えた。
「…うっ…」
嗚咽を洩らし、彼はそのまま地面に突っ伏すと、嗚咽は次第に泣き声に変わった。
それからどのくらいの時間が経ったのか、辺りは段々と薄暗くなってきた。
足首はまだジンジンと痛みを持っていたが、彼は自分の足首に突き刺さった木の枝に手をかけると、思い切り引き抜いた。
血が吹き出し、激痛が全身を駆け巡り、息が詰まる。
しかし、その痛みはすぐに治まった。
「え?」
ぎゅっと閉じていた目を開くと、驚いたことに血も止まり、それどころか傷もない。
「傷が…」
触っても痛みはなく、よく見ると何度も転んだにしては滲んだ血や泥で汚れてはいるものの、少しの傷も見当たらなかった。
「治ってる…」
いつからか、どうしてなのかはわからないが、傷が異常な速さで塞がり、そこに元々傷などなかったかのように元通りに消えていく。
リノは力なく立ち上がると、彼女のリボンを拾い上げ、ポケットにそっとしまうと歩き出した。
しばらく歩き続けると、辺りはすっかり夜の闇に包まれ、前も後ろも、自分の足元さえも見えない程だ。
獣の唸る声、夜行性の鳥や虫たちの声や光の中、彼は木の洞の中に潜り込むと目を閉じ、やがて、彼は夢を見た。
起きるといつものように「おはよう」と笑顔を向けてくれる彼女。
楽しい夢の様な日々を、彼は過ごした。
優しい声に、温かい腕、団員たちと無邪気に笑う楽しげな姿。
いつもの彼女の姿がそこにあった。
けれど、長い長い夢を見続けた彼は、ある日思い出したことがあった。
団員たちの悲鳴に、崩れたサーカス、血の臭い、罵声を上げる人々、燃え盛る炎。
『生きて』
彼女の最期の言葉が彼の耳に届き、ふと顔を上げた。
真っ白な壁に囲まれた部屋の中で、彼は黒いウサギのぬいぐるみを抱えている。
すぐ近くで知らない誰かが親しげに声をかけてくれるが、その声がくぐもって届かない。
「…これは、ウサギだ…。黒い、ただの…ウサギのぬいぐるみ…」
彼はその時、長い夢から目を覚ました。
そのウサギのぬいぐるみを古びて汚れたソファに置くと、彼は室内に入って来た男に呼びかけた。
その男は「魔女だ」と叫んだ男のように見えた。
「…覚えてる?」
彼女のことを。
彼女の最期を。
青年は返り血に染まったまま外へ出た。
彼の髪を撫でる風はどこか悲しげだったが、彼には感じ取れなかった。
さあ、あいつらを探しに行こう。
愛する彼女のために。
終わり。
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